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織部焼は結構な謎に満ちていますね。だからマンガになるの?
古田織部の存命中は「織部焼」とは呼ばれていなかったようで、当時は「瀬戸茶碗」や「瀬戸皿」と呼ばれていたそうだ。「織部焼」と呼ばれるようになったのは、古田織部が亡くなってからおよそ80年程経った、江戸中期頃です。
織部焼は、ずっと瀬戸で焼かれていたと思われていましたが、つい80年程前の調査で、美濃で焼かれていたことが分かりました。
古田織部の本名は、古田重然(しげなり)、「織部」は役職名であった。 古田織部は、千利休の死後、豊臣秀吉の天下で大名の茶のスタイルを確立したといわれる人物、しかし、この時代は難しいですね!その後の茶の湯の指導者の座は、古田織部の弟子の小堀遠州に移っていったそうな?!
豊臣秀吉
千利休
古田織部
小堀遠州
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